remcat: 研究資料集

(TANAKA Sigeto)

「作成者が拒否する場合に論文で使用することはできない」とはどういうことか

『社会学評論スタイルガイド』第2版第3.8.2項のこの規定、実際には何を要求しているのだろうか?

3.8.2 ウェブ文書を論文で使用する場合の注意点
 図書館等で半永久的に閲覧可能な紙媒体の資料と異なり,ウェブ文書を論文で使用するさいは独自の注意が必要となる.以下に特に注意が必要と思われる点について示す.

(1) 作成者の意思の尊重
 インターネット上に存在する電子情報は万人の閲覧に開かれてはいるが,調査が回答者の協力を必要とするのと同様に,作成者が拒否する場合に論文で使用することはできない.「無断引用不可」「無断転載不可」の意思表示があるウェブサイトや,加入手続きが必要となるインターネット上のコミュニティでのやりとりを論文で使用する場合は,使用許可を得た旨を明記するなどの注意が必要となることに留意する.
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日本社会学会編集委員会 (2009)『社会学評論スタイルガイド』(第2版)

http://www.gakkai.ne.jp/jss/bulletin/guide3.php#sh3-8-2

書いてあるとおりふつうに読めば、「インターネット上に存在する電子情報」は「作成者が拒否する場合に論文で使用することはできない」ということになる。よほどひねくれた読みかたをしないかぎり。たとえば、ある研究者が、持論を180度変えたので、以前の論文の使用を拒否する、と意思表示すれば、それ以降、その研究者の過去の論文のうち、オンライン雑誌に載ったものは使用できないことになる (「作成者」の意思が問題であって、「著作権者」の問題ではないことに注意)。そんなバカな。

「ウェブ文書」とは

これに関しては、この項の主題である「ウェブ文書」の定義次第かもしれない。「図書館等で半永久的に閲覧可能な紙媒体の資料と異なり」という部分から推測できるのは、「半永久的に閲覧可能」かどうかが問題なのであって、紙かウェブかが本質的な問題ではなさそうだということである。たぶん、ウェブ上の文書は管理者の意思でいつでも消せるので、情報をずっと残すことをそもそも予定していないことが多い、というところがちがうのではないか。いわゆる「魚拓」サービスにおいて「忘れられる権利」が問題になるのと同じである。しかし、雑誌論文の場合、長く残すことが前提になっている媒体であって、それはウェブ版でもかわりない。そうすると、従来の紙媒体とおなじと考えるべきではないだろうか。

では、雑誌でないものはどうなるか。たとえば 『社会学評論スタイルガイド』オンライン版 は新しい版が出れば上書きされていくので、古い版はのこさない仕組みである。つまり、「半永久的に閲覧可能」な状態にすることを予定していない。だから、もし日本社会学会のサイトに「無断引用不可」と書いてあれば (書いてないと思うが)、『社会学評論スタイルガイド』オンライン版を使用することはできないことになる。

学会は学術的な討論に対して開かれた組織のはずであるから、学術論文での情報利用を拒否するなんてありえない、個別に許諾を求めれば応じてくれるはずだ、と思う読者もいるかもしれない。しかし、学会が情報の利用を拒否するケースは実際に存在する。

私は現在、産婦人科や生殖医学の領域で流通している怪情報の研究 に従事しているのだが、このあいだ、日本生殖医学会 (2014) が編集している専門医医研修プログラム用の教科書『生殖医療の必修知識』 中のあるグラフ (https://remcat.hatenadiary.jp/entry/20160430/jsrm とほぼ同じもの) の利用許諾を申し込んだところ、断られたのである。おかげで、別のグラフを掲載して、「これと同様のグラフが日本生殖医学会が編集した教科書に載っている」と言及する方法にせざるをえなかった (学術出版社には、グラフや写真について著作権者の許諾を求めてそれを証明する文書を添付しないといけない仕組みのところが多い)。

ウェブ文書一般についてこれとおなじことがおこれば、たとえば政府のウェブサイトに載っているさまざまな政策関連情報についても、使用を拒否する権利が政府にあることになってしまう。

「使用」とは

もうひとつの問題は、「使用することはできない」とはどういう意味か、ということである。「引用」とは別のことばが使われているのだから、別の概念と考えるべきだろう。

すこし前にもどると、第3.8.1項につぎのような記述がある。

3.8.1 文献注のつけ方
 引用または参照する場合の文献注のつけ方は,3.2-3.5の引用規則に準ずる.すなわち,ウェブ文書を引用する場合の文献注は,「……引用文……」(著者名 出版年: ページ数)などの形で,ウェブ文書から直接の引用をせず参照する場合の文献注は,(著者名 出版年)または著者名(出版年)という形で,紙媒体の文献注に準じて示す.

 なお,以下に著者名や更新日が不明な場合の対応についても記す.ただし,著者や更新日(作成日)が不明の文書を先行研究として使用することは,原則として避けるべきである.
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日本社会学会編集委員会 (2009)『社会学評論スタイルガイド』(第2版)

http://www.gakkai.ne.jp/jss/bulletin/guide3.php#sh3-8-1

この部分での「使用」の使用法をみるかぎり、「引用」と「参照」(引用しないで文献の存在だけを示す) の両方が「使用」に該当するようだ。

そうすると、さらにヒドイことになる。「使用することができない」というのは、単に引用を禁じるだけではなく、「こんな文書があります」という風に言及することすら禁じていると解釈できるからだ。

もっとも、第6.2項にいくと、つぎのような記述もある。

(4) 図表などの「使用」

 オリジナリティの高い図表や写真・絵画・歌詞などを使用する場合は,法律用語としては「引用」ではなく,他者の著作物の「使用」にあたります.その場合には,当該図表・写真・絵画・歌詞などの著作権者から使用の許諾を受けなければなりません.
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日本社会学会編集委員会 (2009)『社会学評論スタイルガイド』(第2版)

http://www.gakkai.ne.jp/jss/bulletin/guide6.php#sh6-2

この場合の「使用」はおそらく、著作権法第32条の「引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない」という制限をこえるようなかたちで掲載するという意味であろう (つまり、図表や写真・絵画・歌詞などを著作権者の許可なく載せることは正当な引用ではないと日本社会学会は考えているということ)。この解釈をとれば、正当な引用とみなされる範囲で文章を切り取って載せるのはそもそも「使用」ではないので、第3.8.2項の規定とは関係ない。第3.8.2項が関係してくるのは、相当長い分量の文を載せるとか大幅な改変をおこなうとか出典を明示しないなど、正当な引用とはみなされない方法をとる場合に限られる。

『社会学評論スタイルガイド』の他の部分をみても、「使用」ということばの意味について一貫した定義にしたがって解釈するのはたぶん無理ではないかと思う。つまり、はっきりした定義をもつ術語ではなく、文脈に応じてちがう意味で使われていると考えたほうがよいのではないか。

そうすると、第3.8.2項での「使用」はどういう意味なのだろうか?

第3.8.2項で「作成者が拒否する場合に論文で使用することはできない」とくる前には、「調査が回答者の協力を必要とするのと同様に,」という節がある。ここだけ読むと、論文に (具体的な文面として) 何を書くかという問題ではないのかもしれないという気がする。つまり、社会調査において対象者の同意をえずにとったデータを使うことができないのと同様に、作成者が当該の研究での使用を拒否しているデータは使ってはならないということではないか。そうすると、もはや引用とか参照とかの話ですらなく、完全に匿名化したデータによる統計分析の結果を示すことさえ許されない。

私見

なぜこんなことになっているのか。たぶん真相は、『社会学評論スタイルガイド』第2版をつくるときに、あまりよく考えずにこの項目を追加してしまったということではないか。起草者の頭には何かプロトタイプ的な事例はあっただろうが、規定の文章からそれをうかがい知ることはできない。さまざまな事例を想定してこの記述で大丈夫なのか、といった検討はおこなわれていなかったのではないか。

とすると、文面にこだわってもしかたがない。原点にもどって考えよう。この規定は何のために存在するのか。何を戒め、何を護ろうとしているのか。

私見としては、2種類のケースを区別するといいのではないか、ととりあえず考えている。

ひとつは、会員制オンラインコミュニティに研究目的であることを隠して入会し、そこでえたデータを無許可で使うようなケース。「隠して」とか「無許可で」とかの線をどこで引くのかなど、むずかしい問題がいろいろ出てくるが、ただ、これはオンラインでなくても、従来からフィールドワークの際には生じていた問題であって、ことさら「ウェブ文書」云々の項に入れることではない。また、論文を書く以前の、そもそも研究計画をどう立てるかの段階から問題になる話であるから、論文原稿の『スタイルガイド』ではなく、研究全般にかかわる『倫理綱領』などのほうで対応すべきである。

もうひとつは、上でも触れた「忘れられる権利」の問題である。ウェブ文書は削除してしまえば人々の目に触れなくなるものであり、だからこそ気軽に文章を公開できるという側面がある。私もブログ記事を書くときには、「まちがってたら後で修正すればいいや」というので、最低限の校正だけしてアップロードしていることが多い。SNSでの日常的な書き込みやブログのコメント欄やブックマークにいたっては、校正すらしていないことが多い。そうやって気軽に書いたものが、自分の管理のおよばないところにコピーされ、いつまでも人目に「晒される」のが耐え難い苦痛だという感覚は理解できる。そのように感じる人が萎縮してしまって気軽に文章を公開できなくなることも、その人たちへの危害でありうる。また、社会全体にとっても、それは大きな損失をもたらすことかもしれない。実際、いわゆる「ウェブ・アーカイブ」や「魚拓」はなんらかのかたちでオプトアウトする仕組みをとっているのであるから、それと同等の仕組みを学術論文にも導入しようというのはそれほど変な話ではない。

問題は、「忘れられる権利」を認めるか認めないかをどこでわけるのか、ということになる。「変な情報を載せてたけど、あれ削除したから、みんな忘れてね☆」といわれて、それを認めるべきなのかどうか。判断の基準はさまざまだろうし、機械的に適用できるような基準はつくれないだろうが、線引きのためには何を考えないといけないのか、というところから議論しないとしかたないのではないか。

そういう意味では、おさえておくべきなのは第2版の第3.8.2項ではなく、第1版の第6.3節「調査倫理」である。再掲しておこう。

 当面は,社会学者ひとりひとりが,自分なりの調査倫理を定めて,みずから守るというのが,ベストであろう.
〔……〕
 いずれにせよ,学術雑誌に掲載される論文は,調査対象とした当事者たちに読まれることはない,といった安易な考えに依存してはならない.投稿者自身が熟考して決めた調査倫理にのっとって実施した調査研究の成果を,『社会学評論』に投稿していただきたい.
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日本社会学会編集委員会 (1999)『社会学評論スタイルガイド』 p. 32

http://f.hatena.ne.jp/remcat/20170527224541


(つづく) → 日本社会学会の責任