remcat: 研究資料集

(TANAKA Sigeto)

メディアと専門家が修正する歴史:4月の感染拡大は帰国者のせいか

東京新聞の記事とその疑問点

東京新聞が「検証・コロナ対策」という特集をはじめている。新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) 対策について、「その歩みを振り返り、危機への備えに何が必要かをあらためて考える」のだという。

その第1回、「水際対策強化に時間かけすぎ、流入許す」(7月14日) につぎのようなことが書いてあった。「脇田」は、専門家会議の座長であった脇田隆字のことである。

「これはまずい」。3月10日ごろ、脇田は手元に届いたデータを見て思った。イタリア、フランス、スペイン…。国内で感染が確認された人の中に、欧州からの帰国者が出始めていた。
 中国からのウイルス対策に力を注ぎ、9日の会見で「何とか持ちこたえている」と述べたばかりだった。ところが欧州で感染爆発が起き、世界保健機関(WHO)事務局長のテドロス・アダノム(55)は11日にパンデミック(世界的大流行)を宣言。局面が変わりつつあった。
 首相の安倍晋三(65)が五輪を「予定通り開催したい」と表明した14日、会議のメンバーらは勉強会を開く。欧州などで感染者が急増しているデータは、強い危機感を共有するのに十分だった。政府に水際対策の強化を求める方向になる。
 脇田は19日の会議まで待つ猶予はないと判断。17日、「至急、帰国者や訪日外国人対応を」との要望書を提出する。4月の感染拡大を防ぐには、ここからの2週間が岐路だったことが後に分かる。
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「水際対策強化に時間かけすぎ、流入許す<検証・コロナ対策 ①>」東京新聞 2020年7月14日 06時00分

https://www.tokyo-np.co.jp/article/42199/

17日の要望書を受けて政府が速やかに「水際対策」を強化していれば感染拡大が防げたかのような書きかたである。

ところが、そのあとにはつぎのような記述が出てくる。

「上野公園は花見客でにぎわっています」。20日からの3連休、テレビで行楽地の様子を見た脇田は愕然とした。「メッセージが伝わっていない」。連休後、東京都新宿区の国立国際医療研究センター病院で、感染症医の大曲貴夫(48)はスタッフから「先生、絶対おかしいです」と報告を受ける。検査で陽性者が急増していた。「このままだと(感染爆発した)ニューヨークになる」と恐怖心を抱いた。
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「水際対策強化に時間かけすぎ、流入許す<検証・コロナ対策 ①>」東京新聞 2020年7月14日 06時00分

https://www.tokyo-np.co.jp/article/42199/

一般に、病原体に感染したあと、発症して診察や検査を経て診断を受けるまでにはかなりの時間がかかる。COVID-19の場合、この時間は平均して10日以上とみられており、専門家会議が状況分析・提言で使ってきた実効再生産数の計算もこの前提に基づいておこなわれている。3月の3連休あけ、たとえば3月25日に検査で陽性になる人が急増していたのだとしたら、それは3月15日にはすでに感染が急速に拡大していたことを示している。

このことは、記事に掲載の図からも確認できる。感染が確認された人の数は、オリンピック延期が決まった3月24日以降、増加している。この人たちが感染したのはその10日以上前であるから、3月14日以前から拡大がはじまっていたことになる。


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「水際対策強化に時間かけすぎ、流入許す<検証・コロナ対策 ①>」東京新聞 2020年7月14日 06時00分
図「PCR検査による陽性者数の推移 (3~4月、全国)」

https://www.tokyo-np.co.jp/article/42199/

17日に提言を受け取った政府が大車輪で手配を進め、翌18日には「水際対策」を一気に強化したとしても、それで感染の拡大を防げたわけではないだろう。そのときまでに、すでに感染は拡大していたからである。

もっとも、国内で拡大していたところに国外からの人が付け加わったのだから、それが拡大をいくぶんか後押ししたことにはなる。したがって、「水際対策」を強化しておけば、感染拡大自体は防げなくてもその速度や規模を抑えることはできたのではないか、という推論はありうる。

この「後押し」はどの程度の大きさだっただろうか? 前の記事 でも使った、ネトウヨ兄のデマを正す妹Bot (2020-04-19) 「クラスター対策をまとめてみたよ」 https://note.com/demauyo_tadaimo/n/n168ce24fe68e のデータから、3月の最後の1週間 (25-31日) に報告された感染者数をとりだすと、全部で930件あるうちの104件に「渡航歴」のあったことがわかる。11%である。この時点までに急激に増加していた感染者の大部分は、日本国内で感染した人たちだった。

11%というのは無視してよい数字ではない。しかし、もしこの人たちを水際で隔離できていたとしても、のこりの89%には影響はないから、930件の代わりに826件を起点として感染者が指数関数的に増えていくだけだ。東洋経済新報社のデータ によれば、4月中に報告された新規感染者数は1万2361人。ここから11% (=1360人) 減らすことができれば、1万1001人になる。東京新聞記事のいう「4月の感染拡大を防ぐ」とは、1万人を超える感染者が出ているなかで1400人程度を減らす、という意味なのだろうか?

もし、3月17日以降に入国した人はそれ以外の人よりも再生産数が格段に高い、といった事実があるなら話は変わってくる。そういうデータを専門家が持っているなら、それをさっさと公開すべきである。

感染日と実効再生産数の推定

専門家会議は、その提言等 で、感染者の発病日や診断日からいつ感染したかを推定し、それをもとにした実効再生産数 (Rt) を計算して説明に使ってきた。5月29日の「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」から、推定結果のグラフをみておこう (発病日に基づく推定部分のみ)。なお、この「状況分析・提言」には推定方法の説明はないのだが、別途 https://github.com/contactmodel/COVID19-Japan-Reff/ に解説があり、実効再生産数は国内での感染に限定して計算していることがわかる。


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新型コロナウイルス感染症対策専門家会議 (2020-05-29)「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」p. 5
図2 全国の実効再生産数推定値 (5月28日版)。
ここでは発病日データからの推定による「上図」だけを示す。
ページ下部にはつぎの注釈がある:
「※横軸は推定感染日。青線が実効再生産数の代表値とし、95%信用区間に濃い青の影を付した。また、棒グラフは発症者数を示し、色の濃い部分が海外からの輸入例を示す。」

https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000635389.pdf

実効再生産数は2月下旬から3月上旬にかけて1前後で推移していたが、3月11日から急激に上昇し、17日には2を超えていた。しばらく高い水準を維持し、22-24日ごろにすこし上昇したあと下降に転じている。

ここからふたつのことがわかる。ひとつは、17日にはすでに実効再生産数は2を超える高水準になっていたのだから、これ以降の海外からの流入がなかったとしても、感染は拡大したにちがいないということ。もうひとつは、その後の数値の動きをみるかぎり、海外からの流入による実効再生産数の急上昇なども起こっていなかったということである。(若干の上昇はあるので、その時期の帰国者が国内感染者より高めの再生産数を示していた可能性はあるのかもしれない。しかしそれは長続きせず、すぐに低下している。)

もっと早く手を打っていたらどうだっただろうか? グラフは、輸入例の推定感染日の分布も示している (灰色の部分)。これによると、彼らの大部分は、日本国内で実効再生産数が上昇した11日以降に感染している。「輸入例」という以上、感染場所は国外である。時間的に見ても、空間的に見ても、これ以降の海外からの流入と国内での実効再生産数の上昇とは関係していないのである。

3月11日以前にも輸入例はある。しかし国内感染者にくらべて数がすくないから、これらの事例によって3月中旬の感染拡大が起こったともいいにくいであろう。あえていえば、2月下旬の実効再生産数が1を下回った時期に輸入例が増加し、そのあとで実効再生産数がやや上昇している。ここが急所であった可能性はあるのかもしれない。いずれにせよ、このような事柄については、専門家による詳細な報告がまず公表されるべきである。

この推定は信用できるのか

ただ、このグラフはあくまでも入手可能なデータに基づく推定であるため、信用していいのか、という根本的な問題がつきまとう。つぎのグラフは、上でみた図のつづきで、発病日だけでなく、診断日のデータも加味して推定したものである。


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新型コロナウイルス感染症対策専門家会議 (2020-05-29)「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」p. 5
図2 全国の実効再生産数推定値 (5月28日版)。
ここでは発病日と診断日の両方のデータを使用した「下図」だけを示す。

https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000635389.pdf

さきほどのグラフ (「上図」) と全体的な形状は似ているが、こまかいところはかなりちがう。特に、いま問題にしている3月中旬の感染状況については、この「下図」のほうが実効再生産数のピークが高く、すぐに減少するという特徴がある。投入するデータのちがいでこれだけ揺れることを考えると、感染拡大がはじまった時期もあやまって推定している可能性があると考えるべきであろう。

逆にいえば、専門家会議が使ってきた感染日と実効再生産数の推定がまちがっていたと認めて修正するのであれば、3月17日以降に水際対策を強化すれば感染拡大を防げたはずだという主張にも説得力が出てくることになる。しかしそういうことをせず、自らが座長をつとめた会議でこれまで出してきた文書と矛盾する主張をメディアを通じておこなうというのは、誠実さを欠いた態度である。

メディアの役割

こういう疑問点は、取材した記者がその場で突っ込むことのはずだ。専門家会議の座長に話を聞きにいく以上、これまで出してきた文書は事前にチェックしておくべきもの。その内容が頭に入っていたのであれば、「3月17日以降の水際対策が感染拡大防止に重要であったという今の発言は、5月29日「状況分析・提言」に記載の実効再生産数の推移と矛盾しませんか?」といった反問がその場でできないとおかしい。この要求はきびしすぎるのだとしても、実際に記事を書いてみれば、つじつまがあっていないのは、上でみたようにあきらかである。なぜそれがそのまま公開されてしまうのか。

3月下旬というのは、いまからわずか4か月前。直近に国内で起こったことの記憶・記録ですら、無責任な専門家と内容を精査しないメディアの発信によって、簡単に書き換えられてしまうものなのである。