remcat: 研究資料集

(TANAKA Sigeto)

「卵子の老化」初出? (1974年 日本医学会シンポジウム)

https://remcat.hatenadiary.jp/entry/20170322/hakone で引用した1974年日本医学会シンポジウムにおける副会長 (大島研三) あいさつのなかに「昨日来お話がありましたように,調節すること自体に,より優秀な子孫を設けることに対する反対の現象も十分に考慮しなければならないということでございますので」というくだりがある。このあいさつだけ読むと意味がつかめないのだが、これはたぶん、このシンポジウムでのふたつの報告 (美甘和哉「発生異常:細胞遺伝学的見地から」; 西村秀雄「発生異常:奇形発生学的見地から」) についての討論のこと。ここで大島がふたつの避妊法 (荻野式とピル) による発生異常の発生リスクについて質問している。

 大島:〔……〕荻野式調節というのは非常に日本で広く行われておると思うんですが,これを行うとつまり過熟卵が受精する機会,すなわち奇形をつくることが多いかどうかということを専門家のご意見として伺いたいんですが.
〔……〕
 大島:〔……〕将来ピルを日本で広く使われることになる可能性があると思いますが,これが危険が全くないものかどうか,あるいは何か警戒を要するかどうか,どなたかこの機会に教えていただくことができますか.
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『日本医師会雑誌』74(8):926-927 (1975) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3356047

これらに対する報告者の答えは、いずれも、これらの避妊法による発生異常のリスクはありえるが、確実なデータはない (これからの課題である) という内容である。

この後の一連の質疑のなかで、鈴木秋悦が「エイジング」ということばを使って、議論を拡大している。

 鈴木 (秋):〔……〕臨床的には,荻野式のリスクということは,卵胞内での卵子の過成熟ということではなくて,排卵後の卵の卵管内でのエイジングの問題に関連してくるんじゃないかと思います.
 私たちも家兎などを使いまして排卵し,後の時間の経過とともに卵管内卵子のエイジングのプロセスを電顕で見ていますが,それによりますと,まず核よりも細胞質に変化が認められています.結論的には,卵子の老化と卵胞内での過成熟は多少こまかいニュアンスのところでやはり違う面があるんではないかと思うんですが、もし美甘先生から何かご意見ございましたら…….
 美甘:いまの鈴木先生のお話で,“卵子の輸卵管内でのエイジング” とおっしゃった現象は私のいう “卵子の輸卵管内過熟” でありまして,遅延受精とも呼ばれる現象であります.古くから “overripeness of the egg” すなわち “卵子の過熟” と呼ばれて来たものであります.この状態の卵子は排卵後受精されないまま長時間卵管内にあって第2成熟分裂の中期以後の成熟過程を経ないで退行変性を開始したものであります.正確には,卵子は精子の侵入を契機に第2成熟分裂を終わって第2極体を放出したときはじめて成熟するものでありますから,ここでいう “過熟卵” は “過成熟卵” と呼ぶべきではありません.過熟という言葉が卵子形成終了後に起こる現象を表すような印象が強く,まぎらわしいことは確かであります.
 私が成熟濾胞内の卵子が排卵の遅延によって退行変性する現象を報告したとき “intrafollicular overripeness of the egg” すなわち “卵子の濾胞内” 過熟と呼び,従来知られた過熟現象もあらためて “Intratubal overripeness of the egg” すなわち “卵子の輸卵管内過熟” と呼び直して両者を区別したのであります.前者は germinal vesicle stage (卵核胞期) で留められた卵子の退行変性で,後者の輸卵管内過熟とは卵子形成過程の異なる時期で起こる現象として明らかに区別されるものであります.
〔……〕
 鈴木 (秋):〔……〕過熟というのはたとえ排卵の時期になっても,なお卵胞内に存在しているということにことばの意味をおつけになっているというふうに理解していたわけですが,もし vesicular stage であれば、当然これは immature ですので,1つの過熟という,成熟度のポイントを,やはり排卵の時期にすでに来ているのに排卵していないというところへ置くのが妥当じゃないかというふうに思いますので〔……〕
 美甘:いまの「過熟」の定義ですが、非常に気をつけて言う方は,overripeness ということばを使わないで,むしろ delayed fertilization (遅延受精) とか,delayed ovulation (遅延排卵) といった表現を使っております.誤解を避けるために「遅延排卵」「遅延受精」であらわしたほうがよいかも知れません.

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『日本医師会雑誌』74(8):928-929. (1975) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3356047
文中の「濾」は、原文ではさんずいに「戸」の漢字であるが、機種依存キャラクタであるため、「濾」で代用したもの。
キッコー (〔 〕) のない3点リーダー (…) は原文どおり。

この鈴木質問が、現在までに私が収集している範囲ではいちばん古い「卵子の老化」の用例である。これ (1974年8月5日) 以前の使用例をご存じのかたは、ご一報いただけるとありがたい。

この質問では、「卵子の老化」とは、排卵から受精までの時間の経過による細胞 (質) の変性のことだった。今日の通俗化した用法にみられるような、母体の加齢に並行して起きる細胞数の減少や受精卵の染色体異常の増加を指しているわけではない。