remcat: 研究資料集

(TANAKA Sigeto)

産婦人科医の考える「エビデンス」とは

鈴木 秋悦 (2000)『現代妊娠事情』報知新聞社 ISBN:4831901350
という本を借りてきたところ、内容がすごかったのでまとめておく。
鈴木秋悦(すずき しゅうえつ)は元慶應義塾大学産婦人科助教授。経歴は http://www.ohshiro.com:80/about/adviser.php など参照。

最初に報知新聞記者(軍司敦史)によるインタビューがある。そこで鈴木は執筆の目的についてつぎのように語っている。

私は、これまで医学の領域といわれた専門的なものも、医師と読者が同じレベルで考え、一緒に悩むものと思って書きました。
〔……〕
もう少し専門的なことまで足を踏み入れて、自分で責任を持って判断してほしいのです。自分の体なんですから。センセーショナルな情報に惑わされずに、確かな知識を持ってほしい。そう思って書きました。

-----
鈴木 秋悦 (2000)『現代妊娠事情』報知新聞社 ISBN:4831901350 p. 3

欧米では、エビデンス・メディスン、つまり、証拠に基づく医学が主流となりつつあります。
〔……〕
この本ではできるだけデータ、つまり証拠を載せました。そのことで不安を無くしてもらいたいのです。

-----
鈴木 秋悦 (2000)『現代妊娠事情』報知新聞社 ISBN:4831901350 p. 4

これらは非常に納得のいく話である。この本が本当にこのような方針で書かれたものだとしたら、さぞかし素晴らしい内容であろう。

……と思って、中身を読んでみると、これがまったくこのインタビューを裏切る「データ」を並べた内容であった。


-----
鈴木 秋悦 (2000)『現代妊娠事情』報知新聞社 ISBN:4831901350 p. 18

まず、「『結婚1年以内の妊娠の可能性』は30代から急激に減ってくる!」という18頁のグラフ。「Sue Craig 1990」という出典らしき表示があるが、これが何かわからない。この本には文献一覧など載っていないので、著者名と出版年 (?) だけみせられても、原典のたどりようがないのである。ちょっと探してみても、「Sue Craig 1990」という情報でヒットする文献はなく、正体がわからない。

20代前半の数値は96%くらいになっているが、これは1カ月あたりでは24%くらい。Fecundability の値としては高めであるが、そういう研究はあるようである (Baird (2013) "Women's fecundability and factors affecting it" pp. 193-207, ISBN:9780123849786 参照)。しかし、プロットが等間隔ではなく、35歳のところに点を打ってあるあたりがいかにもあやしい。ともかく、データの性質や計算方法などわからなければ、評価のしようがない。こんなものを根拠にして「責任を持って判断」することなどできるわけがないし、「確かな知識」が得られるはずもない。

以下、おなじような調子で、どこから持ってきたのかわからないデータがならぶ。


-----
鈴木 秋悦 (2000)『現代妊娠事情』報知新聞社 ISBN:4831901350 p. 24

24頁の「なにも治療しなくても不妊カップルが子供を授かる確率」「年齢と不妊率との関係」グラフ。「1995年」とか「米国での調査」とか、ちょっとだけ情報が書いてあるが、それ以上の説明は何もなし。


-----
鈴木 秋悦 (2000)『現代妊娠事情』報知新聞社 ISBN:4831901350 p. 37

37頁の「精子の数は年々減ってきている?」というグラフに関しては説明(というか批判)はあって、これは「デンマークのスキャケベク医師が発表した「男性の精子数が半世紀で半減し、このままのペースで減っていくと21世紀末には人類が滅亡するのでは」というレポート」だそうで、「世界中の61の論文をまとめて、のべ1万5000人のデータにもとづいたもの」ということである。論文はたぶん Carlsen + Giwercman+ Keiding + Skakkebaek (1992) BMJ 305 http://doi.org/10.1136/bmj.305.6854.609 だと思うのだが、ちゃんと書いてくれないと特定できない。この論文だとすると、抄録を読む限りでは、1930-1991年の論文データベースからとってきた61論文を対象とするメタ分析による研究成果のようである。

鈴木はこの研究が気に入らないようで、「米国では逆に「精子数は変わっていない」が通説になりつつある」(36頁) とか「昔のデータを引っ張りだして同じ土俵で比較しても、データの価値があるとはいえないでしょう」(37頁) とか批判するのだが、裏付けとなる文献などは何も示されない。これで読者の不安が無くなると思ったのだろうか?


-----
鈴木 秋悦 (2000)『現代妊娠事情』報知新聞社 ISBN:4831901350 p. 43

43頁のこの図「男性不妊症の大半は精子が作られる機能の異常だ!」については、出典表示はおろか、本文中の説明すらなし。


-----
鈴木 秋悦 (2000)『現代妊娠事情』報知新聞社 ISBN:4831901350 p. 54

54頁には「胎児のときから作られる卵子」という例のグラフが出現。例によって出典表示なし。鈴木は『ヒトの受精のタイミング』(講談社 1982年) や『生殖のバイオロジー』(日本評論社 1983年) では別のグラフを使っていた (http://f.hatena.ne.jp/remcat/20170221212545 参照。出典が書いてないが、たぶん Baker (1972) Acta Endocrinologica 71 http://doi.org/10.1530/acta.0.071S018 等) のであるが、ここに来て、20歳以降なだらかに卵子が減少していくようにみえるグラフを使いはじめる。いまのところ、私が見つけている範囲では、胎児期のピーク以降に卵子数が単調に減少しつづけるタイプのグラフとして最古のものである。

ただ、こういうグラフを使いながらも、鈴木はあくまでも「なぜ数を減らすのか、どんな卵子を捨てているのか分かりません」(55頁) とだけ書く。「卵子が減るから妊孕性が落ちる」みたいな話をしているわけではないのである。そういう乱暴な説を産婦人科医が語りはじめるのは、2011年以降のことになる。


-----
鈴木 秋悦 (2000)『現代妊娠事情』報知新聞社 ISBN:4831901350 p. 96

96頁のグラフ。本文中に「厚生省は最近、〔……〕生殖医療の意識調査をしました」とあって、これに対応するものだと思うが、この書きかたではどの調査か特定のしようがない。


-----
鈴木 秋悦 (2000)『現代妊娠事情』報知新聞社 ISBN:4831901350 p. 117

117頁のグラフ。「クラミジアの陽性率は初期妊婦に意外に多い!」「クラミジアに感染すると卵管障害が起りやすい!」などと書いてあるが、出典不明。本文中にはグラフについての説明は何もない。

とまあ全体的にこんな感じ。いいかげんなデータをならべた本というのはたくさんあるもので、そのなかのひとつというだけの話ならそれで終わりである。ただ、最初のインタビューによれば、著者はこの内容で大真面目に「証拠に基づく医学」(evidence-based medicine) を実践したつもりらしい。そしてこの本は「医師と読者が同じレベルで考え」る本なんだそうだ。つまり医師の考える「エビデンス」というのはこういうものなんだということである。

この本の出版から13年後、おなじ慶應義塾大学医学部の教授であった吉村泰典 (日本生殖医学会理事長 (当時)、内閣官房参与) は人口学の受胎確率 (fecundability) のデータを改竄して年齢と妊孕力の関係をあらわすグラフを創り、「22歳時の妊孕力を1.0とすると、30歳では0.6を切り、40歳では0.3前後となる」(http://d.hatena.ne.jp/remcat/20160331 参照) といった持論をぶちあげる。このグラフも、データについての説明は一切なく、出典も「O'Connor et al, 1998」としか書いていないという代物であった。

吉村やすのり (2013-06-25) 「卵子の老化―続報― 女性の年齢と妊孕力との関係」(吉村やすのり生命の環境研究所)

http://yoshimurayasunori.jp/blogs/%E5%8D%B5%E5%AD%90%E3%81%AE%E8%80%81%E5%8C%96%E2%80%95%E7%B6%9A%E5%A0%B1%E2%80%95-%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%B9%B4%E9%BD%A2%E3%81%A8%E5%A6%8A%E5%AD%95%E5%8A%9B%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82/

このグラフは、日本産科婦人科学会や日本生殖医学会など9つの専門家団体が政府に提出した要望書 でも使われ、文部科学文部科学省が2015年に作成した 高等学校の保健副教材 にも採用された。これらが問題化したことをきっかけに、産婦人科医が広報・政治活動に使ってきたトンデモなグラフの数々 が明るみに出ることになった。

いちおう鈴木(と報知新聞社)の名誉のために書いておくと、『現代妊娠事情』の内容自体はそれほど変なことは書いてないのではないかと思う。あくまでも私の直感のはたらく範囲内では、という限定つきではあるが。現在の産婦人科関連団体が繰り広げているような露骨なデタラメは出てこない。

ただ、出してくるデータにほとんど根拠がないのである。それを「一般向けの書物なので厳密なデータは出していません」ではなく、「データ、つまり証拠を載せました」と書いてしまうところが、著者の非科学性を示している。出典も示さずにもっともらしいグラフをみせることが「確かな知識」を提供したことになるのだ、という態度が学界内で共有されていたとすれば、そこから改竄グラフを使ったプロパガンダまではわずかな距離しかなかっただろう。