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(TANAKA Sigeto)

「家制度」をめぐる奇妙な言説

3月9日の『日本経済新聞』サイトに、「夫婦別姓は家制度を壊すか」というコラムが載った。

このコラム、「家制度」というものの理解があまりにデタラメなので、どこがおかしいのかを指摘しておきたい。

「制度」とは何か

まず、下記の部分。「家」がどうこういう以前に、「制度」とは何かがわかっていないようである。

ここで夫婦別姓を望むのは、家制度を壊したいウーマンリブ運動家という誤解がある。しかし、少子化が進む中で一人っ子同士が結婚すると、いずれかの家が絶えることを懸念する親もいる。2人の孫に双方の家を継いでもらえることも夫婦別姓選択の大きな効用である。ただし、この場合には子の姓についても統一しない選択肢が必要となる。

別姓選択とは、夫と妻が同姓でなければならないという現行民法の規制を、自由に選択できるようにするだけだ。これにより、家制度を守りたい人と、壊したい人の双方を満足させることができる。
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吾妻橋「夫婦別姓は家制度を壊すか」(大機小機) 日本経済新聞 2021年3月9日 2:00

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO69781280Y1A300C2EN2000/

個人の自由な選択にまかされる事柄は、「制度」ではない。「制度」とは、個人に一定の行為を強制したり制限したりするもの だから。たとえば有斐閣『新社会学辞典』によると、「制度」(institution) はつぎのように説明されている。

人々がそれぞれの時代にそれぞれの地域で一定のパターン化された日常生活を営むことができるのは、細かな行為規則から *慣習や *法 に至るさまざまの水準での *社会規範 に準じて、それぞれの生活場面でしかるべき行動様式がみられるからである。この行動様式が社会のさまざまな側面で複合化し体系化したものが制度である。それゆえそれぞれの制度は、日常生活において自明のもの、変わらざるものとして立ち現れ、個人からすれば、外在的で拘束的な性格を有している。こうした制度は、社会の大多数の成員によって受容されると、それへの *同調に対して積極的な評価が行われ、*逸脱に対しては負の *サンクション が加えられる。
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佐藤 勉「制度」『新社会学辞典』有斐閣 (20131993) ISBN:4641002584
p. 863
〔*印は説明が別に立項されている言葉〕

ちょっと何いってるのかわかりにくいが、要するに、人々が社会規範にしたがうことによってパターン化された行動体系が維持されている場合、それを「制度」と呼ぶということだ。

社会規範の典型は法である。たとえば戸籍法によって、戸籍の仕組みが定められている。これは戸籍に関係する人々 (役所で戸籍担当についている公務員もそうであるし、出生届けや死亡届をだす立場の一般人もそうである) に、法律の規定にしたがった行動を強制する。法にしたがって、子供がうまれた人は出生届けを出し、それを窓口で受け取った職員が内容を確認して戸籍のデータベースの更新操作をおこなう、といった一定パターンの行動がみられることになる。このようなパターンを体系化したものが「戸籍制度」ということになる。法以外にも、さまざまな団体が定める規則や、慣習的に私たちがしたがっている秩序も社会規範である。そうした社会規範が私たちに一定の行動パターンを強制することにより、制度が生まれる。

だから、「家制度を守りたい人と、壊したい人の双方を満足させる」などということは、定義によって起こりえない。「家制度」なる制度があるとして、それを壊したい人が壊してしまえば、家制度はなくなるのである。逆に、家制度が守られているとすれば、その制度 (を支える社会規範) の強制力は、制度を壊したい人にもおよぶ。

もちろん、日本経済新聞のコラムが社会学の定義に則って書かれているとはかぎらない。ただ、たとえば『広辞苑』(第5版) も「制度」の語義としては「制定された法規。国のおきて。」「社会的に定められている、しくみやきまり。」のふたつを載せており、なんらかのルールによって個人の行為を制限したり強制したりするものであることは共通の要件である。

「家」とは何か

つぎの問題は、「家」についての理解もおかしいことである。

日本語の名詞「家」(イエ) は、日常的に使われる語であり、「人が居住する建築物」としての意味をふくめ、多義的に使われる。家族法に関連する用法としては、

  • 明治民法 (1898年成立) が規定した「家」
  • 日本社会に伝統的に存在してきた、家業を営み、世代を超えて継続していく、経営体としての性格を持つ親族集団

のふたつがある。

明治民法における「家」

1898年に成立した民法 (「明治民法」と呼ぶ) は、その732条でつぎのように規定した。

戸主ノ親族ニシテ其家ニ在ル者及ヒ其配偶者ハ之ヲ家族トス
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民法第四編第五編 (1898年法律9号) 732条

https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F0000000000000017308

「戸主」は、戸籍の先頭に書かれる人のことであり、「其家」はその戸籍を指している。この条文では、戸主が属する戸籍を「家」と呼んでいるのである。

これに先立って1988年に作成された法律草案 (身分法第一草案) にもすでに類似の条文があった。草案に付された、「戸主」についての説明をみてみよう。

第一草案人事編は、第一二章として「戸主及ヒ家族」の章を置いた。第三九二条は、「独立シテ一家ヲ成ス者ヲ戸主ト為(す)」と規定する。本条に付された「理由」によれば、「戸主トハ生計上家居ノ構設即チ一世帯ヲ統括スルト否トニ拘ラス 独立シテ一ノ姓氏ヲ公称シ戸籍ヲ特有シ眷属ヲ董督シ社会ニ対シ其家ヲ代表スル者 ヲ云」う。すなわち、ここで想定されている「一家」は、現実の家族共同体ではなく、戸籍上の「家」である
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近藤 佳代子「夫婦の氏に関する覚書(一)」『宮城教育大学紀要』49: 354-368 (2015).
〔注番号を省略した。強調部分は引用者による。〕

http://id.nii.ac.jp/1138/00000430/

この草案自体は採用されず、さらにそのあとつくられた民法法案は帝国議会に提出されていったん成立したあと、施行を待たずに廃止され、再度法案が作成・提出されて、1898年の明治民法成立に至った。したがってこの草案がそのまま明治民法になったわけではないのだが、「家」とは戸籍上の概念である、という原則は受け継がれている。

ちなみに、明治民法のこの条文は、戸主の「親族」(この範囲は同法の725条が規定していた) のうちで戸主の戸籍に登録されている者、および彼らの配偶者を、あわせて「家族」と定義する (現在の「家族」の用法とはおおきくちがうので注意)。家 (=戸籍) のメンバーは、おおむね「戸主とその家族」ということになる。もっとも、戸籍のほうが民法よりも20年以上前にできており、今日の住民基本台帳に近い機能を持ったものでもあって、どの範囲の人をどのように登録するかについてしばしば争いが起きて原則が変更されるなど曲折を経ており、実態としては「戸主とその家族」の範囲に合致しない場合があった。しかしこれ以降は、戸籍はこの民法の規定にしたがって編成されていくことになる。

ということで、この意味での「家」は、当時の戸籍に登録されていた人々のまとまり、ということになる。おなじ家に属する人々はおなじ「氏」を持つだけでなく、「家族」の親族関係上の行為 (たとえば婚姻・養子縁組など) にあたっては戸主の同意を必要とするなど、「家」のことについて戸主がさまざまな権限 (および義務) を持つ設定になっていた。

当初の戸籍は、実際の居住関係などをもとにつくられ、しばしば非常に広い範囲の親族をふくむ巨大なものであった。時が経てば登録された人々は死去するなどしていなくなるが、あたらしいメンバー (たとえば子供、孫、ひ孫……) が登録されていくため、永久に存続することが想定されている。戸主も代替わりしていく仕組みになっており、そのことに関するこまかい規定が設けられている。なお、「分家」(743条) の規定はあるものの、家族が引っ越すなどして実際の居住形態が変化した場合に、それにしたがって戸籍をいちいち変更する仕組みにはなっていない。そのため、編成から時間が経過するにつれて、戸籍に載っている「家」は、実際の生活の状況とくいちがうようになり、場合によっては実態とほとんど対応しない書類上のみの存在になっていく。

さて、この意味での「家」の制度は、1947年の法改正で廃止された。したがって、現在は存在しない。

現在でも戸籍制度はあるが、明治時代のものとはちがい、「戸主」「家族」という概念はない。ただ、戸籍の記載順でいちばんめの人 (現行の戸籍法 9条にいう「筆頭に記載した者」) が、「筆頭者」と呼ばれている。

戸籍の筆頭者以外のメンバーは、結婚したとき (戸籍法 16条) か同一氏の子供ができたとき (17条) に独立し、新戸籍が編成される。このため、現行制度の戸籍は、2世代をこえて存続できない。筆頭者からみた場合、子供は同一戸籍に入りうるが、孫は入らないのである。

明治民法が想定したような、子供、孫、ひ孫……のように未来の世代が戸籍に登録されていくことによって永続する「家」は、現行法の下ではありえない。戸籍に記載された人々は結婚するなどして別の戸籍になるか、死亡するかしていくので、いずれその戸籍は空っぽになる。あとにのこるのは、かつてこの戸籍にこういうメンバーがいたという事実と、その人たちにどのような戸籍上の移動 (出生・死亡・婚姻など) があったかの記録である。

だから、明治民法型の「家」というのは、今日の制度では実現しようがない。もし実現したいなら、法律を変えて、「家」制度を復活させるしかない。

経営体としての「家」

もうひとつの「家」の概念は、伝統的な日本社会の家族の実態に根差すものである。

日本の近代以前からの *伝統として、家族生活の統率者である家長のもとに、*家族そのものに属する財産をもち、家職や *家業を営み、家族が世代を超えて存続し繁栄することに重点をおく生活規範の体系を家制度とよぶ。
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石原 邦雄「家制度」『新社会学辞典』有斐閣 (20131993) ISBN:4641002584
p. 32
〔*印は説明が別に立項されている言葉〕

「家業」を営む家族経営体は、現在でもたくさんある。時代がちがうので、昔の伝統的な「家」とおなじというわけにはいかないが、同様のことを現代風にアレンジしながら実現している。

もちろん、家族にそのまま財産をもたせて家業を営ませるような、直接的な法制度は、現在の日本社会にはない。しかし、私たちが団体を創ったり事業を経営したりする自由は一般的にあるわけである。それがたまたま家族によっておこなわれるとしても、何もおかしいことはない。

ひとつの方法は、会社組織をつくって役員を親族で固め、社長の子供が次の社長になる世襲制度にすることである。もし社長に子供がいなければ、次期社長を養子とすればいい。

もうひとつの方法は、事業主個人の財産にもとづいて個人が経営する自営業としての体裁をとり、親族がその事業に協力することである。しばしば、明確な雇用契約なしに実質的な労働をおこなういわゆる「家族従業者」のかたちをとる。このような事業体は労働基準法の規定が適用されない例外となっており (労働基準法 116条2項)、その実態を把握しにくいなど、さまざまな問題が指摘されながらも、現在でも広くおこなわれている。

このような意味での「家」を経営し、存続させていくにあたって、戸籍上の「氏」のちがいは何の障害にもならない。佐藤氏が社長をつとめる「佐藤商会」の従業員が全員佐藤氏でなければならないということはない。次期社長が鈴木氏であっても何も問題ないであろう。個人自営業として事業をおこなう場合、次世代にどうやって財産等を継承するかが問題になるが、それは遺言 (遺贈の場合) あるいは続柄 (法定相続の場合) で決まる。氏が別だから継承できないとかいうことはない。

もちろん、当事者の心情として、「佐藤商会は代々佐藤氏の人に継いでいってもらいたい」という希望を持つことはありうる。その場合は、なんとかしてその人に氏を変更してもらえばよい。これは現行法でも養子縁組等を活用することで可能であり、現にしばしばおこなわれている。

家名を存続させるには何が必要か

日経コラムが指す「家」というのは、以上のような意味でのものではなく、子孫が祖先とおなじ氏を保持している、というだけのことのようだ。伝統的な家制度でも、「家名」を継ぐことが大切な要素だったことは確かである。いまやその部分だけが「家」の要素として認識されているのかもしれない。当該部分をもういちどみておこう。

少子化が進む中で一人っ子同士が結婚すると、いずれかの家が絶えることを懸念する親もいる。2人の孫に双方の家を継いでもらえることも夫婦別姓選択の大きな効用である。ただし、この場合には子の姓についても統一しない選択肢が必要となる。
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吾妻橋「夫婦別姓は家制度を壊すか」(大機小機) 日本経済新聞 2021年3月9日 2:00

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO69781280Y1A300C2EN2000/

たとえば、佐藤Aという人に子供がひとりだけいたとする。この子供Bが鈴木Xと結婚してその際に「鈴木」氏を選択したとすると、鈴木Bという氏名になり、佐藤氏ではなくなってしまう。Bさんに子供 (Aさんからみると孫) ができたとすると、その氏名は鈴木Y、鈴木Z……等になるので、やはり佐藤氏ではない。こうした状況を「(佐藤) 家が絶える」と表現しているのだろう。

しかし、ここでどうしても佐藤家が「絶える」のがいやだと考えるなら、それを避ける方法はある。養子をとればいいのである。養子になるのは鈴木Xさんでも鈴木Yさんでもいいし、ほかのだれでもいい。佐藤Aさんを養親とする養子縁組をおこない、養子が佐藤氏となれば、子供の代に「佐藤」氏がのこる。

一方、法改正して選択的夫婦別氏制度が導入されたとしたらどうか。この場合、確かに、佐藤Bさんと鈴木Xさんが結婚後もそれぞれ佐藤氏、鈴木氏を維持することが可能にはなる。しかしこれは「選択的」な制度なのだから、どちらの氏を選ぶかはBさんやXさんの意思次第であり、Aさんに決定権はない。さらに孫の代まで「佐藤」氏をのこすには、Bさんに子供ができたときに子供に「佐藤」氏をつけてもらう必要があり、さらにその孫がつぎの世代の子供をもうけるときまで「佐藤」氏を保持してもらわねばならない。

このように考えると、選択的夫婦別氏制度を導入したとしても。「2人の孫に双方の家を継いでもら」うのは簡単なことではない。それには、子供や孫に特定の氏を確実に選択させる強制力が必要になる。そして、たとえば佐藤Aさんの経済力とか同族集団の圧力とかによってそうした強制が実際におこなわれたとしたら、それはBさんやその子供にとっては自由な選択とはいえまい。

夫婦別氏反対の論理

このように、日経のコラムは基本的な認識がいろいろ変なのであるが、それ以上に問題なことがある。それは、こういう考えかたをしていると、夫婦別氏反対論の論点を見誤るということである。実際、このコラムの主張が正しいなら、夫婦同氏を強制する理由は何もないことになる。それでは、なぜかくも強硬な反対意見が維持されつづけているかがわからないではないか。

ここまで整理してきたことから、夫婦別氏反対論者は、家制度を擁護しているわけではない ことがわかる。彼らは現行法を前提にして議論しているのであり、そこには明治民法型の「家」はすでに存在しない。家族経営体としての「家」は実際に多数存在しているが、それらは戸籍に基づいて維持されているのではなく、氏は一義的に重要なものではない。また当事者たちがもし重視するなら、養子縁組なりなんなりの手段によって同氏だけの経営体を維持することは現在でも可能である。だいたい、もし伝統的な家族経営型自営業がそんなに重要だと考えるなら、苦境に陥っている業者を支援し、その経営基盤を強化するために力を入れるべき実質的な政策がいろいろあるだろう。

上述のように、現在の戸籍には、2世代の親子しか載らない。夫婦同氏が問題になるのは、夫婦だけの戸籍か、それに未婚の子供が加わった戸籍の2種類である。つまり、その戸籍に載っているのは核家族であり、核家族の内部では氏は統一しなければならない (逆にいえば、核家族の外部とは氏がちがっていても無問題)、というのが夫婦別氏反対派の主張ということになる。彼らが守ろうとしているものは、核家族なのである。

もうひとつ、夫婦別氏反対論の重要な特徴として、それが通称使用の拡大の主張とともになされているという点がある。これ自体は昔からあるもので、たとえば1990年代半ばのこととしてつぎのような証言がある:

法制審の幹事役であった私は、95年から96年にかけて、延べ200人近くの自民党議員を回って説明しました。すると、予想に反して、反対する意見が大多数だったのです。

〔……〕

――反対の理由は?

 「家族の絆を弱める」「通称使用を認めれば足りる」というのが主なものでした。
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「夫婦別姓、反対派は「生半可じゃない」 無念の元担当者」(小池信行インタビュー) 朝日新聞DIGITAL 2021年1月29日 14時00分

https://www.asahi.com/articles/ASP1R5HKWP1NUPQJ011.html

この動きは近年とみに加速している。住民票やパスポートは全部「佐藤」名義でよい。税や社会保険の手続きも「佐藤」の名前でおこない、周囲もみんな「佐藤さん」と呼んでいる。それで何の問題もないが、ほとんど誰も知らない戸籍上の氏だけは「鈴木」にしないといけない、という主張が、現在の夫婦別氏反対論である。つまり、実際の社会生活とは何の関係もないところで、政府が管理する親族関係データベースにだけは「氏」を書き込んでおかないと災いがもたらされる、という呪術的な主張 が大真面目になされてるわけだ。

これらのことからわかるように、夫婦別氏反対論者がこだわっているのは「家制度」ではない。また私たちが日常生活で使う、個人を識別するための「氏名」でもない。彼らが守りたいのは核家族の内部ではたらく「絆」である。そしてそれを実現するための呪術的な装置として、戸籍と「氏」がある。つまるところ、戸籍に秘められた「氏」のパワーがなくなれば核家族が解体してしまう! というのが、夫婦別氏反対論の要点ということになる。

履歴

2021-03-15
公開
2021-09-22
有斐閣『新社会学辞典』の出版年を2013→1993に訂正 (2箇所)