remcat: 研究資料集

(TANAKA Sigeto)

高校保健副教材「妊娠しやすさ」グラフ問題から考える科学リテラシー教育

(東北大学の広報誌『まなびの杜』寄稿予定の小文。推敲途中のもの。)

→『まなびの杜』77号 (2016年秋号、2016-09-30発行) 2頁に載りました http://www.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi77/ [2017-03-10加筆]

田中重人◎文
text by Tanaka Sigeto

高校保健副教材「妊娠しやすさ」グラフの問題

二〇一五年、文部科学省が作成した 保健副教材『健康な生活を送るために(高校生用)』改訂版 は、妊娠・出産に関する医学的・科学的知識をはじめて盛り込んだ教材というふれこみで、各高校に配布されたものです。その四十ページには、女性の「妊娠のしやすさ」と年齢との関係を示すグラフが掲載されていました。このグラフの曲線は、二十二歳をピークとして急激に下降するように改変されていて、引用元の論文のグラフとはかけはなれた形状になっていることが指摘され、問題になりました。文部科学省はその後、グラフを訂正しています。(訂正後のグラフにも問題があります が、ここでは触れません。)

実は、このグラフは、今回の教材改訂用に新しくつくられたものではありません。特定の産婦人科医がウェブサイトや講演資料、政府の作成した広報用動画などで以前から使っていた ものでした。私は、この事件をきっかけに、産婦人科や生殖医学における広報・政治活動に興味を持ち、資料を集めてみました。すると、女性の妊孕力の年齢による低下を誇張したものや、妊娠に関する人々の知識レベルが低いことを強調したものなど、妥当性の疑わしいグラフが、ほかにも種々使われてきた ことがわかりました。

日本でこれらのグラフが出回りはじめたのは二〇一二年ごろです。「妊活」「卵子の老化」といったキーワードがマスメディアをにぎわすようになった時期にあたります。日本生殖医学会、日本産婦人科医会といった専門家団体の広報のほか、政府の委員会などでも政策決定の資料として使われ、安倍内閣の「少子化社会対策」に影響をあたえてきました。学校教育に妊娠・出産に関する医学的・科学的知識を盛り込むことになったのは、その一環の出来事でした。

情報源を調べることの大切さ

これらのグラフが使用されてきた経緯をみると、情報の確かさをきちんと調べて間違いを正すという、専門家が本来果たすべき役割分担が機能していないことがわかります。元の論文に載っている図表とはあきらかに数値が違うもの、データの解釈がおかしいものもありますし、どうやって算出した数値なのかということ自体がわからないものもあります。データの出所をさかのぼって確認するという鉄則が守られていれば、出てくるはずのないものでした。しかし実際には、このようなグラフが専門家のお墨付きを得て流通し、世論や政策に影響をあたえてきたのです。「女性の妊娠しやすさは二十二歳がピーク」というようなインパクトのあるグラフは、改変されながらコピーされて流布していきます。そして、いったん「科学的に正しい知識」として広まってしまうと、後から間違いを正すことは困難です。

この問題は、「科学」というものの実態は、社会のなかの営みであり、政治的な駆け引きや時流に強く影響されたものであることを教えてくれます。正しい知識を得ようとするなら、政府や専門家のいうことを鵜呑みにするのではなく、その真偽を常に自分でチェックすることのできるリテラシーが必要です。大学をふくめ、学校での教育というものが、そのような科学リテラシーを育てるものであってほしいと願っています。


図1) 宗教的な理由で避妊・中絶しないキリスト教フッター派集団の1950-60年代のデータによる年齢別出生率。 M. C. Sheps, Population studies 19 (1965) Table 2各系列の2年目以降について3年間移動平均をプロットした。出生率は新婚期には60%以上と高く、結婚から時間がたつと低下していく共通のパターンをたどる。


http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2015/08/17/1360938_09.pdf (2015年8月25日確認)
図2) 文部科学省 (2015)『健康な生活を送るために(高校生用)』p. 40 (公表時) のグラフ。20代前半までに結婚した女性のデータ (図1の青色線2本) による推定結果に1960年代の台湾の16-24歳女性のデータを接合したグラフ (Bendel and Hua, 1978, Social biology 25(3)) が、その後3回にわたり改変されてきたもの。

http://web.archive.org/web/20150822025627/http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2015/08/17/1360938_09.pdf

田中 重人 (たなか しげと)
1971年生まれ
現職/東北大学大学院文学研究科准教授
専門/社会学・社会調査法
関連ウェブサイト/http://tsigeto.info/misconduct/

履歴

2016-08-16 リンク情報を2か所修正し、4か所追加しました (文章には変化ありません)。
2016-08-29 英訳版を作成:http://d.hatena.ne.jp/remcat/20160711/en
2016-08-29 独立したページURL http://d.hatena.ne.jp/remcat/20160711/mori を設定しました。
2016-08-29 東北大学広報誌『学びの杜』へのリンクを追加しました: http://www.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/
2017-03-10 東北大学広報誌『学びの杜』77号オンライン版目次ページへのリンクを追加しました: http://www.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi77/
2017-03-10 『学びの杜』掲載版に合わせて図 (1) を追加しました