「卵子の老化」キャンペーンでは、卵子の数のみならず、女性の妊孕力そのものが年齢にともなって低下することをあらわすグラフも広く使われてきました。
図6は、妊娠・出産に関する事項を学校で教えるよう、日本産科婦人科学会など9つの専門家団体が政府に要望書を出した際に使われたグラフです [30]。この要望書は、2015年3月2日、当時の有村治子内閣府特命担当大臣 (少子化対策) に手渡されました。
図6: 専門家団体の要望書で使われた「妊孕力」グラフ
http://f.hatena.ne.jp/remcat/20151006183013
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http://www.jfpa.or.jp/paper/main/000430.html から複製
図6の大元は、Bendel & Huaによる1ヶ月あたり受胎確率 (fecundability) の研究 [29] です。この研究はデータのあつかいがおかしく、女性の生物学的な妊孕力を測ることには失敗しています。特に、25歳以上のデータに関して、20代前半までに結婚した早婚の女性だけを分析した点が問題です。分析対象のデータは、1950-1960年代アメリカのフッター派*1 コミュニティの調査 [31] によるものですが、そこでは、20代後半から30代前半に結婚した女性 (図7の黒い点線) は、すくなくとも新婚の時期には、かなり高い出生力を示していました。ところがBendel & Hua はこれらの女性のデータをとりのぞき、早婚の女性 (図7の青い実線) に限定して分析をおこないました。結果として、女性の受胎確率は早くから減少をはじめるという知見を得ているのですが、それは結婚からの時間経過を反映したものであって、年齢による変化とは断定できません [32]。一般に、夫婦間にいちばん子供ができやすいのは新婚期であり、時間が経つにつれて出生力は下がります。ただ、それは年齢を重ねて妊孕力が落ちるためとは必ずしもいえない。結婚生活が長くなるにつれて不仲になったり、性行動が不活発になったりする要因もあるわけです。
図7: フッター派コミュニティの年齢別婚姻内出生率
https://remcat.hatenadiary.jp/entry/20160820/sheps
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Sheps [31] の表から3年間移動平均を計算 [1] [32]
Bendel & Huaの論文 [29] が出てから11年後、Wood [33] がグラフの20-24歳部分を加工して22歳ピークの曲線をつくり出しました。その曲線がO'Connorほかの論文 [34] で不正確にコピーされています。それを単純化して、図6とほぼおなじグラフにしたのが、慶應義塾大学名誉教授の吉村泰典です。吉村 [35] は、元のグラフが1歳刻みの曲線であったところ、7つの点だけを抜き出し、20-30代の4つの点を左にずらして、22歳で頂点を迎えたあと一気に妊孕力が低下するよう変えてしまいました。
ここで重要なのが、Bendel & Hua [29] は、出版翌年の1979年には、分析がおかしいことの指摘 [36] をすでに受けていたという事実です。文献引用データベースのWeb of Scienceによれば、Bendel & Hua [29] はそれ以来13回しか引用されていません (2016年2月3日確認)。それらのなかに、データと分析方法を吟味したうえでBendel & Huaの結果を支持した文献はありません [32]。この研究は、科学的な根拠として信頼に足る情報源であるかのように、教科書で無批判に言及していいものではないのです。
図6によく似たグラフは、2015年に文部科学省が高校に配布した保健副教材『健康な生活を送るために』[37] に「女性の妊娠のしやすさの年齢による変化」というタイトルつきで載りました。担当した有村治子大臣は、当該副教材は新しい少子化社会対策大綱 [8] に沿ったものと説明しています。この副教材のニュースが流れると、グラフを改ざんしている問題だけでなく、出生力を上げるための手段として若者を早い時期に結婚させようとしていること、女性に出産への圧力をかける内容になっていることが批判を集めました [14]。
([ ] 内の数字は文献番号です http://tsigeto.info/18l#bib 参照。)
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「22歳ピークの「妊娠のしやすさ」グラフ」『2010年代日本における「卵子の老化」キャンペーンと非科学的視覚表象』, 6ページ
*1:「フッター派」(Hutterite) は中央ヨーロッパで16世紀に生まれたキリスト教アナバプテストの一派。19世紀になってその一部が北米に移住しました。